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事件記者[報道癒着]

事件記者[報道癒着] 第8章(その1) 「逃亡」

著:酒井直行/原案:島田一男



第8章 (その1)
「逃亡」

 6月19日午前1時30分。
 神田警察署の留置場の独房で眠れない夜を過ごしていた岩見を、看守が外へと連れ出す。
「岩見孝太郎。今から東京地検へ送致する」
 看守は事務的に淡々と言い放つ。
 岩見はそれに従うしかない。ただ、ずいぶんと送検が早いなと思った。
 逮捕されてまだ丸一日も経ってないじゃないか、と。
 怪訝な表情をする岩見に看守は気づいた。
「地検の検事さんに感謝しろよ。お前の場合、任意同行された17日の昼前を逮捕時間として計算してくれたらしい」
 ああ、そういうことなのか、と岩見は気がついた。
 当然、事件記者の彼にも、逮捕後48時間以内に送検しなければならないという刑事訴訟法第二〇三条は頭に入っていた。だが、感謝しろと言われても、送検が丸一日早まることで自分にどうメリットがあるのかについては、ピンとは来ていない。
 看守から、逮捕された際に着ていた背広の上着を受け取ると、ヨレヨレになってしまったワイシャツの上に羽織る。ネクタイだけは自殺に使われる可能性があるとして没収されたままだが、この際どうでもいい。自分は無実である以上、検察官が送検を決定するはずがないと信じていた。だから、二度とここに戻るつもりはなかった。
 留置場を出ると、村田刑事と遠藤刑事が待っていた。両手に手錠をかけられ、2人に両脇を支えられながら、神田警察署の駐車場へと出ていく。
 署の通用口を出た瞬間、報道陣のフラッシュやテレビカメラの照明に目が眩むと身構えるが、そんなこともなかった。昨日、ここに連行されてくる時には、道路を挟んだ向こう側に大勢の報道陣が待ち構えていたが、今日はその姿は全くなかった。少し肩透かしだった。
「ガンさん……いや、岩見。地検の検事さんに感謝した方がいいですよ」
 遠藤刑事が看守と同じようなことを言う。
「マスコミはみんな、送検は20日の早朝だとばかり思って、待機していなかったんです、きっと」
 なるほどな、これが送検を早めてくれたメリットなのか、と岩見はようやく納得した。
 護送車の前で村田と遠藤が、移送警護を担当する制服警官に岩見の身柄を預ける。制服警官の服部巡査が村田と遠藤に敬礼し、手錠の鍵を受け取った。そして岩見と一緒に護送車の中へと入っていく。
 岩見が護送車に乗り込むと車はすぐに発車した。真夜中ということもあり、わずか5分で東京地検へと到着した。地検の外にもマスコミの人間は見当たらない。
 2日に1度のペースで8階の司法記者クラブに顔を出す身である。当然、東京地検の内部の様子は手に取るように分かっている。取材で検事執務室に入ったこともある。その自分が、今、殺人の容疑者として検事執務室へと連行され、検察送致される身になろうとは、夢にも思ってはいなかった。
 警護の服部巡査と共に執務室に入ると、正面に竹井検事が座っているのが見えた。その脇には、検察事務官がノートパソコンを開いて待機している。
 服部が、岩見を竹井の執務デスクを挟んだ向かいの椅子に座らせると、手錠の鍵を外した。
「岩見孝太郎さん、ですね?」
 竹井検事が岩見の目を見つつ、尋ねた。
「はい」岩見は頷いた。
「夜中に申し訳ありません。では、検察送致をするか否かの判断をします。質問に正直に答えてください。もしくは黙秘することもできます。よろしいですね」
「はい」岩見は素直に返事をする。
「あなたは桜井春乃さんを殺しましたか?」
「いいえ」岩見はきっぱりと否定する。
「殺していない? 殺そうともしていない?」
「はい。そもそも、私には桜井春乃さんを殺す動機がありません」
 岩見は、竹井の視線から目を逸らすことなく言った。
「これはとても重要な確認です。もう一度確認します。あなたは桜井春乃さんを殺してはいないんですね?」
「はい」
 岩見の受け答えを正面から観察していた竹井は、犯行を全否定する揺るぎのない口調に、かすかな違和感を感じた。
 日本の検察官にとって、一番重要な仕事は、警察から送致されてきた容疑者、被疑者を有罪にすることと言い切ってもいい。それほど、日本の司法制度においては、立件された被疑者の有罪率は極めて高い。現役検事の竹井にとって、その事実は日本の警察組織、検察組織の優秀さがなせる業であると心から信じている。警察と検察、2つの治安維持組織が独立しているからこそ、無実の人間を有罪にしてしまう冤罪という悲劇を極力排除できるのだと教えられてきたし、今でもそう信じている。
 竹井が警察から送致されてきた被疑者を取り調べる際、常日頃から気をつけていることがある。それはズバリ、先入観を持たずに事件を整理し、目の前の被疑者を観察すること、これに尽きる。そして少しでも被疑者の犯罪について疑念を感じれば、送検後の取り調べで、立件しない選択、つまり不起訴にすることもやむなしと判断する勇気を持つべしと心に言い聞かせていた。
 そんな竹井が感じた違和感、それはまさしく、何千何百と犯罪者を観察し続けてきた優秀な検察官だけが感じる『冤罪の匂い』でもあった。
 この男、本当に無実なのかもしれないぞ。
 竹井の脳裏に一瞬、そんな考えがよぎる。検事の勘である。
 とはいえ……。
 竹井は警察から送られてきた調書に目を落とす。
 現場に残された2つの遺留品、つまり凶器とされるヘアドライヤーのコード表面に付着した皮膚片と被害者の遺体の指に絡まった頭髪のDNAが、共に岩見のDNAと完全に一致するとの科捜研の報告が目に止まった。
 DNAが一致するというこの物的証拠だけでも岩見の有罪は固い。更に調書には、犯行時刻とされる6月17日午前2時30分前後にどこにいたのかについて、岩見はずっと黙秘を続けていると記されていた。
 オレの勘も鈍ったか。
 竹井はため息をついた。
 DNAの一致と、犯行時刻のアリバイ証言の拒否。この2つだけで、竹井は、公判において、岩見が例え完全黙秘を貫いたとしても、有罪に持ち込める自信がある。
 竹井の腹づもりは、すでに送検決定となっている。だが、いくつか直接、確認を取るべきと考えた。
「確認しますが、現場で発見された遺留物のDNAが、あなたのDNAと一致していることについて、何か言いたいことはありますか?」
「ありません」岩見は即座に答える。
「犯行時刻とされる6月17日の午前2時30分頃、あなたはどこにいましたか?」
「……」さっきまで、あれほど即座に返答していた岩見が口ごもる。
 竹井は、「ほお」と心の中で呟いた。
 この男、何かを隠しているな。
 だが今は、その隠しているモノが何であるかを追求する場ではない。それは送検後、起訴するまでの間、つまり、早くて10日、最長でも20日の間にじっくりと調べ上げれば済む話である。
「分かりました。では、岩見孝太郎さん、あなたを桜井春乃さん殺害容疑で検察送致することにいたします。事件の内容や、主張したいこと、反論されたいことなどは、これからの取り調べでゆっくりとお話しください。今日のところは、深夜でお疲れでしょうから、神田警察署にお戻りになって結構です。つきましては……」
 竹井が調書を閉じながら送検手続きを終えようとしたその時だった。
「あの……」
 突然、岩見が竹井に何かを言いかける。
「はい?」
 竹井が閉じかけた調書を再び開いた。
 自発的な発言には重要な内容が込められていることが多い。竹井は注意深く岩見の話を聞くことにした。
「どうぞ。お話しください」
「……竹井検事は……」
 逡巡した様子の岩見が、しばらくの後、竹井の名前を口にする。
 執務デスクの左端には、『検事 竹井隼平』のネームプレートが置かれているので、それを見た岩見が検事の名前を呼ぶこと自体はおかしなことではない。その上、彼は現役の事件記者だ。直接、裁判などで彼から取材を受けた記憶はなかったが、自分のことを知らないはずがなく、そういう意味でも、岩見が名前を呼びかけてきたことに違和感はない。
 だが竹井はこれまで、検察送致を受けている容疑者から、自分の名前を呼ばれたことは一度もなかった。
 その上、彼はさっきまで、「はい」と「いいえ」以外は口にせず、何かを隠し、黙秘していた人間なのだ。
 竹井は少々面食らい、そして同時に期待もした。
「なんでしょうか?」
 竹井は岩見の次の言葉を待った。
 岩見は意を決したように、真っ直ぐに竹井を見据えた。そして言った。
「伊集院一郎の汚職捜査に関わっていますか?」
 それは想像もしていない質問だった。だから思わず、
「いいえ。関わってはおりませんが」
と正直に答えてしまった。
 検察送致される前の事件の担当検事が誰であるかを外部に漏らすことは違法である。特に、伊集院一郎の事案は逮捕すらされていないのだ。
 訂正するべきか、それとも言い直すべきかどうか迷っていると、返答を聞いた目の前の岩見の表情が変化するのを竹井は見逃さなかった。
 岩見は明らかにホッと安堵しているように見受けられた。
「それがなにか?」
 竹井は注意深く岩見を観察しつつ、尋ねた。
「検事が竹井さんでよかった。あなたの噂は記者クラブの仲間から聞いています」
「どんな噂でしょうか」
「清廉潔白だが、頑固で融通が利かない検事さんだと」
 岩見がズバズバと言いのける。他人にそういう風に見られていることはなんとなく分かっていたが、やはり面と向かって言われると、あまりいい気分ではない。とはいえ、岩見はどうやら悪口を言っているつもりはないようだ。
「褒め言葉として受け取っておきます」
 竹井は精一杯の嫌味で返した。
「ええ。僕は褒めているんです。そんな竹井検事だからこそ、聞いてほしいことがあります」
 岩見が身を乗り出した。
 竹井も釣られるように身を乗り出す。
 執務デスクを挟んで、岩見と竹井の顔と顔が近づいた。
「実は……」と岩見が口を開きかけたその時だった。
 執務室のドアがノックされ、いきなり誰かが入ってくる。森検事正だ。
「森検事正? おはようございます。お早いですね」
 竹井は森に挨拶をする。岩見はドアに背を向けたまま、体を強張らせている。
「うん。眠れなくてね」
 森検事正は笑った。自分の正面に座る岩見の背中を一瞥するも、彼には一切興味がない様子で、
「すまん。仕事中だったか。例の件、4時30分だぞ。遅れるな」
と竹井に念を押す。
「かしこまりました」
 竹井は立ち上がり、一礼する。
 森検事正は、竹井に片手を挙げ、検察事務官にも挨拶を送ると、そのまま忙しそうに立ち去った。
 ドアが閉まるのを背中越しに音で確認した岩見が、
「もしかして、4時30分からの例の件というのは、伊集院一郎の一斉強制捜査ですか?」
と切り出した。
「立場をわきまえてください。あなたは今、殺人事件の被疑者なのです。事件記者ではありませんよ」
 竹井がたしなめる。
「すみません」岩見が素直に謝った。
 しかし。
「で、岩見さん、先ほど、この私に何かを伝えたいようでしたが……」
 竹井が尻切れトンボになっていた会話を復活させようとするが、岩見はそれまでの態度を一変させてしまった。
「いいです。もう」
 岩見は口を閉ざす。同時に心も閉ざしているようだ。
「どうして?」
 意味が分からず、竹井が質問するも、
「二度とあなたにお話することはありません」
 岩見が冷たい視線で竹井を睨んだ。
「え」
 竹井は、何か岩見の気分を害するような発言をしてしまったのかと、数分前からの会話を思い出すが、しかし、思い当たるふしはなかった。
 その後、岩見の身柄を再び神田警察署へ移送する段取りを検察事務官へ指示していた竹井に向かって、岩見がトイレに行きたいと言い出した。
 竹井がそれを了承し、後ろに控えていた移送警護の服部巡査に、「お願いします」と頷いた。
 服部が手錠を岩見の手首に嵌める。そして立ち上がらせると、服部が先導し、岩見を連れ、執務室を出る。
 男子トイレは竹井の検事執務室がある東京地検1階の奥の方にある。
 薄暗い廊下を服部と岩見は、男子トイレへと向かう。
 服部は、男子トイレの扉を手前に開け、中を確かめる。
 誰もいない。3つ並ぶ朝顔型小便器の前にも、2つある個室の中も無人である。
 岩見が小ではなく大の方だと呟くのを確認し、服部は手錠の鍵を外し、岩見をトイレの中へと入らせる。そして手前の個室へ入っていくのを確認すると、
「個室の鍵はかけないように」と、移送警護のルールを伝え、男子トイレの外で岩見が出てくるのを待っていた。
 5分経っても10分経っても岩見が出てくる様子がない。最初の3分間は、ひっきりなしに水を流す音が聞こえてきたのに、それも聞こえてこない。
 不安になった服部が男子トイレの扉を開けようと、ドアノブに手をかけたその時だった。扉が勢いよく開いた。岩見がトイレの中から扉めがけて体当たりをしたのだ。
服部は衝撃で廊下に倒れ込んだ。
「ごめんなさい」
 岩見が、転がったままの服部に馬乗りになると、大声を出せないよう、服部の口に丸めたトイレットペーパーを詰め込んだ。そして、服部が握っていた手錠を、服部の右手とトイレのドアノブに繋ぎ、廊下奥の突き当りへと走り去る。
 岩見にとって東京地検は、勝手知ったる職場の一つである。廊下の突き当りには、普段は施錠されているが、災害時用に内側からしか開けられない非常口があることを知っていた。運良く、解錠できればいいが……。岩見は祈る思いで非常口へと向かっていく。
 検事執務室で服部巡査と岩見の帰りを待っていた竹井だったが、激しくドアが開けられ、血相を変えて飛び込んできた服部の報告を聞きながら、「ウソだろ」と思わず呟いた。

 岩見逃走の一報は、すぐさま東京地検全体に伝わった。
 それは、8階の司法記者クラブで、朝刊最終版の入稿を終え、しばしの仮眠を取っていた東京日報ブースの山崎と浅野の耳にも届いた。
 浅野が警視庁桜田記者クラブでやはり仮眠中の相沢に電話をかけたのもこのタイミングだった。
 東京地検は蜂の巣を突いたような大騒ぎとなった。当初は、東京地検内部に潜んでいる可能性もあると、建物内を重点的に調べていたが、元々、伊集院一郎への一斉強制捜査で特捜部検事や検察事務官たちが徹夜で準備していたこともあり、人目も多く、建物内には隠れる場所がないことがすぐに判明した。そこで今度は、庁職員総動員で東京地検周辺の捜索が始まる。とはいえ、深夜3時過ぎである。地下鉄もまだ走っていないこの時間帯、東京地検周辺の道路には人影はほとんどない。
 岩見逃走の一報を受けた相沢が東京地検へと駆け込んでくる。警視庁とは目と鼻の先とはいえ、全力疾走で走ってきたらしく、肩でゼーゼー息を切らせている。

《つづく》

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