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筒井康隆の不条理メタフィクションSFの最高傑作!

(新潮社の紹介文より引用)
イタチ族と文房具の戦闘による世界の終わり――。宇宙と歴史のすべてを呑み込んだ驚異の文学、鬼才が放つ、世紀末への戦慄のメッセージ。
まいぷれ編集部S。中年男性。好きな小説のジャンルは、昔はSF小説(筒井康隆・星新一・小松左京)とエッセイ(北杜夫)。今はミステリー小説(東野圭吾・伊坂幸太郎・アガサクリスティー)。
まず、大仰なことを申し上げる失礼を許してほしい。
「人はなにゆえに小説を読むのか?」の回答を明確に答えられる人はいるだろうか?
小説やエッセイは、平安時代に誕生した。もちろん、それは皆さんがご存じの「源氏物語」であり「枕草子」である。
平安時代、これらの作品は一般的な「教養」ではなかった。「教養」での活字文化は「漢詩」であり「和歌」であり、ひらがなで書かれた「源氏物語」と「枕草子」は、当時の貴族社会、特に宮中の女性たちを中心とした「超ハイスペックな最先端エンタメ」であり、コミュニケーションツール(サロン文化)だった。
「あのイケメンの光源氏、次どうなるの!?」と、現代で私たちがNetflixの最新ドラマを語り合うような感覚で、読まれていたはずだ。
その後、江戸時代になると、木版印刷の技術と「貸本屋」の普及によって、一部の貴族や武士だけのものだった創作本が、町人の手に渡ることになる。大河ドラマでも取り上げられた蔦屋重三郎のような敏腕プロデューサーが、浮世絵(ビジュアル)と戯作(ストーリー)を組み合わせ、現代のマンガやライトノベルのような感覚で、様々なジャンルの出版物を刊行し、爆発的にヒットさせた。
その後、明治になり、文明開化で西欧から「Literature(文学)」という概念が入ってきたことで、小説は、江戸時代の「娯楽」から、人間の内面を掘り下げる「芸術」や「哲学」、そして「精神修養」へとアップグレードされていく。
明治中期、坪内逍遥と二葉亭四迷が、「小説は人間のありのままの心理を描くべきだ(写実主義)」と主張し、「~だ」「~である」という、当時の話し言葉をそのまま文章にする言文一致を完成させたことで、日本近代文学は一斉に花が開いていく。
明治後半からは、森鷗外が『舞姫』を発表し、作品のテーマに国と個人の間で引き裂かれる悲恋と葛藤を描き、夏目漱石は『三四郎』『それから』『門』の三部作で、近代的な個人の自由(エゴ)を貫けば、必ず他者を傷つけ、強烈な孤独と罪悪感の代償を払うことになることを何度も繰り返し読者に伝えた。島崎藤村は、『破戒』で、社会の暗部(差別)や人間の生々しい現実を描き出す「自然主義」というブームを起こした。
田山花袋は、『蒲団』で、中年作家(田山花袋本人)が自分のファンだという若くて美しい作家見習いを自宅に住まわせ、作家修行をさせるが、妻子がいる身のため、彼女に手を出したいけど手が出せず、モンモンとしまくり、最後は、彼女が去った後、彼女が使っていた布団に顔をうずめ、残り香を嗅ぎながら号泣するという、ストーカー的&中年男性の気持ち悪さを、作家本人が赤裸々に文章化したことで、彼は私小説というジャンルの祖となった。
この頃から昭和の終わり、そして平成の半ばぐらいまでの100年間は、日本文学が一番発展し、普及していった時代となった。しかし逆に、「文学を読んでいない人間は知識人にあらず。文化人や経営者で年間100冊以下しか文学を読まない人間とはまともな議論もできない」などという、ある種の強烈な教養主義・ステータスシンボルになっていった。
そんな日本文学の絶頂期に現れたのが筒井康隆である。
彼は日本文学界の権威主義を徹底的に批判する。『大いなる助走』は、直木賞選考委員たちを一人残らず惨殺していくというとんでもない小説である。(筒井康隆は、3回、直木賞にノミネートされ、3回とも落選した)と同時に、彼は、文学や活字の未来について真剣に考え、その未来のために数々の実験的作品を発表していく。
『残像に口紅を』(1989年)では、「世界から1つずつ言葉(音)が消滅していく」という究極の言語サバイバルゲームのような構成で、1章ごとに文字が消えていく実験的小説を発表。
筒井康隆のスゴイところは、文字が消えると、世界から「その概念」も消滅するという設定を思いついたところに尽きる。例えば「あ」という文字が消滅すると、小説の本文から「あ」という文字が使えなくなるだけでなく、作中の世界から「あ」を含む事象が物理的に消滅してしまうのだ。つまり「愛」も「雨」も「朝」も、作品の世界から消滅してしまうのだ。章が進むにつれ、どんどん使える文字が少なくなっていき、残された数少ない文字だけで文章を紡がねばならなくなり、主人公たちは、自分の名前の文字が消えれば自分自身も消滅するという恐怖に怯えながら生きていくことになり、更には、書き手である筒井康隆自身も、「使える日本語のボキャブラリーを徐々に削りとられつつも、一つの物語を完結させる」という狂気ともいえるルールに縛られ、苦悩しまくってエンドマークまで書ききった記録でもあった。
最終章に向かうにつれ、使える文字が数個しか残されていない極限状態の中で描かれる描写は、言葉が削ぎ落とされたからこその恐ろしいほどの美しさと切なさを持っている。
で、ようやく今回紹介する『虚航船団』に辿り着く。この作品もまた、文学の未来、そしてエンターテインメントの未来、作家の自我とは何か? 活字、日本語、縦書き文化の未来について、筒井康隆お得意のメタフィクションという形で世間に訴えかけたとんでもない作品なのだ。彼はこの作品で「人はなにゆえに小説を読むのか?」の、彼なりのアンサーを提示している。
この『虚航船団』は、『残像に口紅を』の5年前の1984年に発表された長編小説である。
私が一番みなさんに強く訴えかけたいのが、作中に登場する「ステープラー(ホッチキス)」のシーン。ここが本当にスゴイのである!
目に刺さるカタカナの「コ」:縦書きのページを開くと、ホッチキスの針の形そのものをした「コ」という文字が、ページの最初の列に横一列で何ページにもわたってズラリと並ぶのだ。
「文字とは、意味をなす表現手段である」という読者の常識をひっくり返し、文字を「絵」や「音」「物理的ダメージ」として使った天才的な演出に、最初読んだ私は、あまりのショックに、三日三晩、何も食べることも飲むこともできなかったことを覚えている。それほどすごい衝撃だった。これは電子書籍や朗読じゃ絶対に100%の凄みは伝わらない。「紙の本」であること、日本文学は縦書きであることを逆手にとった、最高の仕掛けだった。
ホッチキスの暴走だけでも衝撃すぎるのだが、この作品の全体の構成も常軌を逸している。
『虚航船団』は、大きく分けて2つのパートがあり、最初が、文房具大戦争。(ホッチキスの暴走もここで登場する)鉛筆・ペンたちは、鋭いペン先を武器に相手を刺し殺すが、消しゴムは、相手を「消し去る」ことでその存在を消滅させるという力を持ち、更に、コンパスや定規たちは、幾何学的な計算で、冷酷に戦場を支配したりする。
最初は「文房具が戦争してる」と筒井康隆初期作品によく見られたドタバタギャグ(スラップスティック)パターンなのかと思いきや、いきなり舞台は、宇宙へと移動し、イタチやアナグマの姿をした神様たちが乗った宇宙船「虚航船団」が、宇宙の果てを目指すという、全く別のSFが始まってしまう。神々は地球の歴史や哲学を語り合いながら、最後にはなんと作者である筒井康隆本人の存在まで登場し、物語そのものが崩壊していく。
とにかく、今すぐ、町の本屋さんに行って、「虚航船団」を手に取ってほしい。(電子書籍ではダメだ。感動が薄まる)そして読んでほしい。必ずや皆さんも「小説という物質」の未来を感じとることができるはずだ。この本はそんな本である。
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「虚航船団」作:筒井康隆
筒井康隆の不条理メタフィクションSFの最高傑作!