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まいぷれ新居浜編集部ニュース

別子銅山へツガザクラを見に行きました。 その1

今年国の天然記念物に指定された銅山峰の「ツガザクラ」。そんなツガザクラを見に行ってみました。

今年2月、銅山峰のツガザクラが国の天然記念物に指定されました。
新居浜市内での国天然記念物の指定は、一宮神社のクスノキ群に続いて2例目です。

そんな貴重なツガザクラは、毎年5月中旬から5月下旬に見頃のピークを迎えます。
先週末、別子銅山の遺構を一緒に楽しめる旧別子ルートからツガザクラの咲く銅山峰へ登ってみました。
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  1. 別子銅山へツガザクラを見に行きました。 その2

旧別子登山口からスタート

新居浜市街地から県道47号を上ること約40分。
別子ダムを過ぎたあたりに「旧別子登山口」はあります。
標識では「旧別子銅山跡入口」となっていますが、一般的には「旧別子登山口」「日浦登山口」などと呼ばれています。
ここは駐車場やトイレも完備されており、銅山峰・西赤石山・東赤石山への最適な登山基地として活用されています。

この日の天気は晴れ、梅雨前で気候も良く駐車場は満車状態に。
道路にまで車が溢れていました。

場所

ここから銅山峰までは3.2km、高低差は約500m。
足谷川沿いに登山道を登って行きます。
なお周辺の山林は全て住友林業の社有林の為、喫煙や焚き火はもちろん、立ち木を傷めたり、枝や植物を採取する事は厳禁です。
この登山道は交通量も多く、程良く整備されており道幅も広い為、歩きやすくなっています。

小足谷集落跡

登山口から20分程登ると、左右に石垣がある場所にやってきました。
この辺りから別子銅山の遺構が次々と現れます。
これは醸造所の跡です。
レンガで造られた煙突が残っています。
この辺りは別子銅山で最も新しく開かれた集落跡である。小足谷の集落は大きく分けて3つに分かれ、小足谷の橋を渡る手前とその対岸の朝日谷集落には労働者が住み、この辺りには往環に沿って商家が軒を連ねていた。そして、この先の接待館地並みから上は庸人(職員)の集落で俗に上前集落といって商人の住む下前集落と区別されていた。
右の屋敷跡は味噌と醤油の製造所で、煉瓦造りの窯や煙突の跡が今も残っている。
上の段の広い敷地はよく話題になる小足谷醸造所である。別子銅山で酒の醸造を始めたのは明治3年(1870)からで、最盛期には年間100キロリットルも製造していた。銘柄ヰゲタ正宗、別名「鬼ごろし」ともいった。

現地案内板「小足谷集落と醸造所跡」より引用

このレンガの塀の内側には、接待館(新居浜でいうところの泉寿亭のような施設)がありました。
明治期に入って急速に鉱業の近代化が進むなかで、それに伴う各界の要人が頻繁に来山するようになった。そこで明治34年(1901)一般人が経営していた泉亭を改装して別子接待館として営業を開始した。因みにこの年の10月には住友家15代家長(友純公)が宿泊されている。この煉瓦塀も恐らくその時点で築かれたものであろう。
この50mほど先に見える煉瓦塀を廻らせた邸宅の跡は、歴代の採鉱課長が住んでいたと言われている。その隣が醸造課長宅で、これより、小足谷に沿って20棟ほどの庸人社宅やクラブなどが建ち並んでいた。
また、醸造所に向けて下るところの住居跡は明治19年に開校した小足谷尋常小学校のあった所で、明治22年黒橋に新規開校した別子尋常小学校に統合されてからは、改装されて教職員の住宅になっていた。

現地案内板「小足谷接待館と庸人社宅」より引用

程なくすると、地面にの岩に刻まれた2本の溝が現れました。
これは荷車の通った跡らしいです。

小学校・劇場跡

こちらの長い石垣の上には、当時小学校がありました。
今では杉の木が所狭しと立っています。
政府は明治5年に学制発布、これによって子女の初等教育が義務付けられるようになった。これを受けて別子銅山では明治8年(1875)に勘場(別子銅山の統括事務所)の下方、通称目出度町に私立の足谷小学校を創設した。その後も学校教育は次第に一般化し、明治19年5月には人口の急増もあって小足谷に尋常小学校を開校、さらに明治22年9月には、ここに私立小足谷尋常小学校を建設、続いて高等小学校も併設した。更に明治27年(1894)に私立別子尋常高等小学校となった。最盛期の明治32年3月には生徒数は男女合計298名、教員7名であった。
学校跡の隣で高い石垣のある所は私立別子測候所で煙害対策の一環として明治31年に設立された。

現地案内板「小学校と測候所跡」より引用

小学校のすぐ隣にあるこの立派な階段の上には、劇場(土木課)がありました。
別子銅山の近代化が軌道に乗りだすと、採鉱・精錬の生産部門と平行して、それを支える部門も増強されていった。つまり、製炭と土木部門が大きなウエイトを占めるようになり、明治10年頃にはこの辺りの用地が造成され明治14年(1881)には、ここを起点とする車道が中七番まで開通し、夥しい坑木や建築資材・木炭等が牛馬車によって運び込まれた。明治22年(1889)山林係が山林課に昇格し、左の石垣群が山林課、右の広い造成地が土木課になった。土木課では明治22年に棟行20間、桁間10間、下屋を入れて延べ350坪もある巨大な倉庫を建てた。明治23年5月の別子銅山200年祭には、ここを劇場として開放し、上方から歌舞伎の名優を招いて盛大に祝った。以来、ここが毎年5月の山神祭には劇場として使われ、山内唯一の娯楽場となっていた。

現地案内板「土木課(劇場)と山林課」より引用

大きな建物が建っていただけあって、石垣も立派です。
道中には、所々穴の空いた重く茶色い石の様な物体が転がっています。
これは「からみ」といって、銅の製錬を行う際に、銅鉱石から分離された物質で、平たくいえば産業廃棄物のようなものです。
後の時代には、これを四角く成型して「からみレンガ」という名称で、建材等に活用されていました。

高橋精錬所・住友病院

またしばらく行くと、谷の対岸の石垣の上に「住友病院跡」と書かれた看板が立っています。
この住友病院跡は、もちろん現在の住友別子病院の前身に当たるものです。
対岸の高い石垣が高橋製錬所跡である。この石垣は更に300m上流まで続いているが、この対岸には明治20年代になって建設された洋式溶鉱炉(左)と沈殿工場(正面)があった。明治28年から政府は環境問題に規制を設け、製錬の際に出る鉱滓を直接川に流さないことにした。そこで製錬所前には暗渠を築いて流水を伏流させ、その上に鉱滓を捨てていたので、一時前の谷は鉱滓堆積広場になっていた。それが、明治32年(1899)の風水害で堆積広場は流され、暗渠も大半が潰れて元の谷川に戻った。ここに残る暗渠は当時の様子をかすかに伝えている。
正面には沈殿工場といって、銅の品質が低い鉱石を砕いて粉末にし、水を使って処理する湿式収銅所があったが、明治32年の水害以降その設備が小足谷に写ってからは、目出度町近くにあった住友病院が一時期移転していた。

現地案内板「高橋製錬所と沈殿工場」より引用

暗渠は今も一部だけですが、形をとどめています。

ダイヤモンド水

ここまで来てようやく中間地点、ダイヤモンド水に到着です。
水を飲んで一休みしましょう。
古くはこの辺りの地名はタカバシであったが、明治12年(1879)頃にこの対岸に洋式の溶鉱炉が建設されてからはヨウコウロと呼ばれるようになった。ところが戦後(昭和20年代)、別子鉱床の他にもう一層ある金鍋鉱床というのを探し当てるためにボーリング探査を始め、ここでも昭和26年に掘削を行なった。予定深度まであと僅かの82mほどの所で水脈に当たり多量の水が噴出し、ジャミングという事故が起きてロッドの先端部分がネジ切れ、掘削不能となった。ダイヤモンドを散りばめた先端部が今も孔底に残っているので、誰言うともなくダイヤモンド水と呼ばれるようになった。
明治10~20年代にかけて対岸の絶壁の上に焼窯という鉱石を焼く所があって、硫黄を取り去った後の鉱石は箱状の桶でこのレベルまで落とし、溶鉱炉に入れて粗銅を採っていた。最盛期にはこの辺り一帯に製鉱課の施設や木炭倉庫がひしめいていた。

現地案内板「高橋溶鉱炉とダイヤモンド水」より引用

ボウリングのチューブの先から勢い良く噴き出す水が、見ていて癒されます。
この辺りにはツガザクラと良く似た花、アカモノが咲いていました。
正面の岩からせり出している茶色い溶岩のようなもの、これもカラミです。

第一通洞

ここで最も鉱山らしいトンネル遺構が出現してきました。
この附近一帯は通称ミナミグチと言う。別子銅山の近代化はこの附近から始まった。明治9年(1876)東延斜坑の開削が始まり明治19年には嶺北角石原からの通洞が代々坑に貫通し、ここに銅山峰の北と南を結ぶ1,020mにおよぶ水平坑道が初めて出現した。以後、大正5年(1916)に銅山の本部が東平に移るまでの30年間、第一通洞南口が銅山の心臓部としての役割を果たした。また、明治26年には第一通洞北口まで鉄道が敷かれたので、運輸面の要ともなり、はじめて運輸課の誕生をみた。以来次々と採鉱課、会計課、調度課が軒を連ねるようになり、近代化の拠点東延時代の一翼を担っていた。往時はこの谷にトラス橋が架かり高橋製錬所まで水平坑道が延び、鉱石と製錬された粗銅を運んでいた。

現地案内板「第一通洞南口」より引用

開坑課 金庫跡

歓喜坑・歓東坑

こちらは歓喜坑・歓東坑。
別子銅山で初めて掘られた坑道とも言われています。
1691年から1973年まで、約300年続く別子銅山のルーツがここにあります。
本鋪(ほんじき)とは一山の主たる生産坑のことである。元禄4年5月9日、幕府の稼行許可を得て、泉屋は直ちに開坑の準備に取りかかった。その時点で、この谷間を利用して、掘り出した鉱石から銅を摘リ出すまでの行程を組み込むために、ここに中心となる坑道を開けることにした。前年の秋に初めて調査にやって来た泉屋の番頭田向重右衛門下した決断であった。かくして別子山中に最初に開いた坑口がこの歓喜間符と歓東間符である。重右衛門が考えた通り、以来明治になって東延斜坑が主たる生産坑になるまで凡そ200年間、ここが本鋪であり続けた。背後の平坦地には鋪方役所があって、負夫によって運び出された鉱石は重さを計って買い取り、砕女小屋へと運ばれた。
上方一帯、ヒノキの立木の中には、山方と呼ばれる坑夫の住宅が並んでいた。

現地案内板「別子本鋪」より引用

目出度町と蘭塔場

さらに登っていくと谷側の視界が開けてきました。
この谷筋に、目出度町という鉱山街が広がっていました。
眼下に見える岩山の石囲いが蘭塔場である。後ろの谷間には木方役所があって、その左斜面では無数の焼窯が年中白煙を吐き、右の山側には吹方(製錬関係者)の住宅が重なる様に建っていた。その手前の森が勘場で、下方の林の中には目出度町があった。開項以来銅山の心臓部として繁栄した。然し、銅山の繁栄には尊い命の代償があった。中でも元禄7年(1694)に発生した大火災は、山方の元締であった杉本助七をはじめ132名にのぼる焼死者を出し、設備の大半が焼失するという大惨事であった。泉屋ではその犠牲者を手厚く葬り、一祠を建てて供養したのが蘭塔場で、以来、職に殉じた御霊を合祠し、盆供養を欠かした事は無い。

現地案内板「蘭塔場と木方展望」より引用

大露頭

こちらの岩は大露頭と呼ばれています。
周りの土が茶色く赤茶けて、明らかに他の岩とは違う雰囲気を漂わせています。
元禄4年(1691)の開坑と同時に開かれた古い坑口で原型をほぼ止めていると思われる貴重な遺跡である。開坑して3年目の元禄7年に峰の向う側の立川銅山から掘り進んでいた採掘場と大和間符の坑道が地中で抜け合った。立川銅山は西条領の領地であったから鉱業権をめぐって大論争となった。
小さい方の坑口は2・3の銀切(60cm×90cm)と云って、水平坑道としては最も小さいものだが、先進坑道としては経済的であった。
古い時代の鉱山は先ず地表に現れている鉱石を見つけることから始まる。しれを鉉探し(露頭探査)というが、それが銅鉱石の場合だと大抵赫黒く変色している。技利きの山師は、その色や形状から鉱石の良否を判定していた。この露頭はいわゆる蜂の巣焼けなので、上等の鉱石と判定されたのであろう。

現地案内板「大和間符と大露頭」より引用

こちらが大和間符。
人一人が入るのでやっとな大きさです。

これで銅山の遺構も終わり、あともう少しで銅山峰です。
果たしてツガザクラは見れるのでしょうか?
次回、銅山峰に咲くツガザクラの様子をご紹介します。
別子銅山へツガザクラを見に行きました。 その1

次の記事
その2



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